昭和44年06月18日 朝の御理解



 御理解 第90節
 「上から下へ水を流すのはみやすいが、下から上へ流すのはむつかしい。道を開くというても、匹夫の俗人から開くのじゃから、ものがむつかしゅうて暇がいる。神のおかげで開かせてもらうのぞ。たとえ一時はむつかしいことがあっても、辛抱してゆくうちには徳が受けられる。」

 私共の願いが本当に成就するという事は、神様の願いもまた一緒に成就するという事だと思うんですね。これは私共の願いが成就する。ことならば私はこんなに難しい事はないと。下から上へ水を流す程に難しい事はない。私共の頼みごとというか願い事というのはね。そん時そん時の目先目先のおかげを受けていくという事はです。私はそんなに難しい事じゃない。けれども私共の本当の願いと言うのは、やはりあの幸福ということですよね。幸せということです。
 ですからその幸福の観点というかねその、見る焦点というものがですね、これいっちょ頂きゃもう幸せになると言った様な事が、あろう筈はありませんものね。しかし人間の本当の幸福というのはここに金があるからとか、健康があるからというだけではないんだと。本当の幸福を求めての信心。そういう信心こそを神様が求め給うおかげなのですよね。人間真実幸福になって行くということ。その事を神様の願いとなさるのですから、私共の願いもやはりそこへおかなければならない。
 そういうおかげはです、そう簡単には頂けんというのであります。その証拠には下から上へ水を流す程の難しさだと、ここには言うておられますけれども、そんなに難しかったらとても金光様のご信者は、こんなに増えはしません。お導きを頂いてその時そん時の難儀な問題を、お取次ぎのまにまにお取次ぎのはたらきを頂いて、おかげを頂きまして有り難うございましたと、言うならば痛いところは擦って貰うて、痒いかところはかいて貰うてというようなですね、おかげを受けておるでしょう。
 そんなに下から上に水を流すほど難しいことはないでしょう。むしろどっちかというと、それこそところてんを押し出すように、おかげを受けておりますもんねそういうおかげは。自分もあっきがないぐらい。だからあのおかげじゃったじゃろかと思うくらいの、そのおかげを確かに受けておるです。それにお互い日々の上に。けれどもそれが幸福の元になるのじゃない。幸福というのはどこまでも私はね、神のおかげで開かせてもらうのぞとこう仰る、開かせてもらうのです。
 匹夫の俗人から開くのじゃから、ものが難しゅうて暇がいるとこう仰る。という事は徳を持たない私達だからね。徳のない私達だからそこんところが難しいとこう言うておられる。ですからそういう真実の幸福の基礎とか、土台と言った様なものを築かせて頂くのですからね、たとえ一時は難しい事があってもとこういうておられます。たとえ一時はもうとても私どんじゃ信心なでけんち言うごたるところも出て来る訳ですよね。けれどもそこのところをです辛抱して行く内にはと、こう言うておられます。
 そこのところを神にすがって辛抱せいよと言うところなんです。そのところを辛抱していわゆる信心辛抱ですね。そこんところを辛抱していくうちに徳が受けられる。そこんところが有り難い。だから徳が受けられるというところ。そこんところに私はひとつお互いの信心はね、信心辛抱し抜かせて頂かねばならんということなんです。でいうならばまぁここで言うと、痛い痒いと言った様な事やらは、日々のおかげですよね。そういうおかげも頂き頂きです、真実人間の幸福を目指してね。
 本当の幸福を目指して信心辛抱させて頂く。その信心辛抱というのはただの辛抱じゃない。それこそ信心を身に付けていく。これがまぁ御徳というものであろうかと思われるような、信心の喜びを段々育てさせて頂きながら道を開いていく。信心の本当の楽しみと言うのは、そこから開けて来ると思うんです。信心の喜びというのは、そこからその信心辛抱の中にあると思うんです。ただおかげを頂くという事は見やすいけれど、ここで仰っておられる難しいとか。
 匹夫の凡人からいわゆる徳のない私達がおかげを頂いていくという事は全部難しい。それは下から上へ流す程に難しい。けれどもそこんところを神のおかげで開かせてもらうのぞという。とても自分の知恵とか力でその幸福というものを勝ち取るという事は出来ないんだと悟らせて貰うて、神のおかげで開かせてもらうのであるから、そこに信心辛抱が求められる。その信心辛抱の間がです、場合には泣く泣くという時もありましょう。とても私達じゃ出来んと言う時もありましょう。
 けれどもそこんところを辛抱しぬかせて頂く、その向こうにです信心の喜びがある。その喜びを味あわせて頂き頂き辛抱させて頂くところに、神のおかげで開かせて頂くということと同時にその間ですね、辛抱していく間には徳が受けられると、只今仰っておられますそのお徳が身についてくる。そこに人間の幸福のね人間の幸福というよりもね、神様の願いがそこに成就すると言うことなんです。私共の願いと神様の願いとが成就する。真実、人間の幸福がそこにある。
 その幸福を神様がこよなく喜んで下さるということ。この辺がなかなかそのう難しいことなんですね実を言うたら。昨夜も御祈念終わりましてから、丁度昨日はあの妹が自転車で参ってきとりましたから、終のバスで帰らんでええち言うので、それで今から帰って風呂沸かしてから、ご飯食べんならんち言いますもん。そげなつはおろたえんでんあんたもう家で、私も今日風呂はいっとらんし、ご飯も私は今日は頂いとらんけん、なら久しぶりで一緒に兄妹ご飯頂こうじゃないのと。
 言うて止めましてからあの人達親子、私もそれからあわててお風呂はいって家内が用意してくれます。そういう中でまぁ久し振りでまぁ兄妹ご飯を頂きながら、信心話に花が咲いたんですけれど。そのなかにはお茶の奉仕を繁雄さんがして下さいますから、私が妹に聞かせるともなしに、私は繁雄さんに聞いてもらうんですよね。繁雄さんどうも私はあんたの信心に、この頃私は不可解なものを感ずる。不可解というのはね、あんたこの頃もう夜も十時御祈念が済むころからやって来る。
 時にはもう御祈念が済んでしもうてからやって見える。そしてまぁ私にお茶の奉仕をして下さったり、足腰をもんで下さったりしてから、そして十二時頃から帰られる。まるきりちょうどこりゃあんた夜の仕事のもんのごたる。それでねそれではねあなたもおかげは受けん私もおかげは受けん。私がね繁雄さん繁雄さんと言うて、例えばお茶はあんたでなからにゃあならんと。この頃どうもおかしな事があると言うて私。
 というのはねこの頃宅祭りなんかが、どこでもあると先ず託けて下さるのは、「どうぞ繁雄さんのお繰り合わせを頂かれますように」繁雄さんにも、またお願いせにゃならんち言った様な事を、みんなが言うんですよち。以前なこげな事じゃなかった。もう親先生の行かれるところにゃ、繁雄さんな影の様に形の様に付いていかれるもんだと思うておったのが、この頃は例えばこれは貴方がいいのか、皆んながどうか分からんけれども、お願いしとかにゃ来てもらわれん。
 と言った様ななんかそんなものを。「あ繁雄さんにゃお願いしておかなきゃ」ち言うような、その事を皆が言うから、こらおかしな事だなと私は思う。だからそれは例えばなるほど折角夜の出て来るんなら、せめて御祈念にぐらい間に合わなきゃ。せめて夜の御理解ぐらい頂かせてもらわにゃね。問題はねただ私がお茶を頂いたり、足腰をもんでもらったりと言うことだけに、私はあなたの信心が、まぁ行じされるとするならね。これは私もそれではおかげ頂けん。あなたもそれでは信心が進展していかんのだと。
 例えば私がほんなら夜遅うから見える。ほんなら今夜泊まっていってから、朝の御祈念を頂いてそして帰ってくれんのという事はです。なるほど泊まってもらや、せめて普通ではお参りも出来ない朝の御祈念にも頂かれるし、御理解も頂いて帰れれるし、そこに言うならば私の付け目というか、神様の付け目はあるとじゃから、ただ私は足腰揉んでさえもらや良い。ただお茶だけ入れてもらや良いというための、繁雄さんじゃないはずなんだと。だからもうこげんただお茶だけのごとあるならば。
 もうまたそげん身体が疲れてから、まぁ出て来られんごたるなら早う帰ってくれんのと私が言う訳です。私達が信心を段々させて頂いておる内にですね、そう言う様な事になりがちなんです信心というものは。ただ信心の稽古に通うて来るのじゃなくて、勿論なるほどそれは尊い御用ですよね。もうこれだけはどんなにきつかっても、十時頃からでも出てね。しかしお百姓さんで十時ごろから出てくる。もう普通でいうならもう、夜中作ってるはずだ。昼の疲れで。
 けどもその十時ごろから出て来て、そして十二時頃までもの御用色々な御用をさせてもろうて、そしてまた夜中に帰っていかれるというのですから、もう実をいやぁ尊い事だけれども、それでは信心の稽古は出来ん。折角ここに来らせて頂くならばです、その御用もだけれども、その御用をさせて頂く端々にです、朝の御祈念も頂けれる夜の御祈念も頂けれると。というところにです。私はその辺の所を考えなきゃいけんのじゃなかろうかねというて、まぁお話をした事です。
 それを聞いておってから妹がおかげを頂いたようです。丁度大和先生も一緒にその話を聞きよりましたから、大和先生もその話を聞いておかげ頂いて下さったように私は思う。もちろん繁雄さんも、いいやもう仕事の方がゆっくりなりましたから、また元にとこう言われるけれども、忙しいとかそういうことじゃないと。信心は心掛けでさせて貰うもんだと。これは繁雄さんの場合の事じゃありません。お互いの信心がです、いわゆるならまぁだここで言っておられるように、神のおかげで開かせてもらうのぞと。
 一時は難しい事があっても、辛抱して行く間に徳が受けられるという、まぁ合楽の皆さんはそこの期間にあるところでしょうが。その辛抱こそです。普通では出来ないその辛抱こそ、して行く内に徳が受けられるという。その徳を受けていく事のための信心でしょうが。先日十三日会にもその事が話題になりました。私が前日お客さんがあってから、昼お神酒の相手をしておって、酔いましたから休ませてもらった。
 丁度善導寺の久保山さん、見えておりましたから、私が休む時に愛子ちゃん、少し足が大変痛みましたから、足を揉んでくれと言うて休んだ。だから愛子ちゃんよりも繁雄さんの方が、ようありなさろうとこうまぁ推慮されて、それから帰って直ぐ電話をかけたら、かけられたらしい繁雄さんところに。ところが繁雄さんは丁度お野菜出しの真っ最中であったから、行かれないという事であった。私はそれを知らなかった。そしたら夜出て来られてからです。
 今日はどうも済みませんでした、久保山さんから電話頂いて。あっちは電話掛けてあったつですか。そるきんが公ちゃんが妙なこつ言いよったもん。繁雄っちゃまがまぁだ見えんですかとか何とかいいござるが。今頃昼来てる筈はなかじゃないかと。と思うたけどどう言う様なこっじゃろかと思いよったらその、電話私が電話ばかくると言うて、帰りなさったに違いない。でそれを公子さんが知っとるから、それをまぁ心待ちしとったらしい。私はもう愛子に足を揉んでもらって、そのまま休んでしまっておる。
 それで晩に見えてから、今日は済みませんでしたとこう言われるから、私はちょっとこうそれこそ不可解だった。もうそれこそ今までの繁雄さんなら、とにかく合楽からといって、しかも親先生からといって電話の架かって来るなら、何をおいても仕事着のままでも走って見えた繁雄さんがで、ちょいと忙しかけんで行かれん。これはちょっと繁雄さんの信心がね。私が期待しておるというか、神様が願っておられるというか、いわゆる繁雄さんの信心には、ちょっと可笑しいと。
 可笑しいなりに狂うて行ったら、大変だと私は思うたんです。だからもう私はそれを聞いてもう実に不愉快だった。それを聞いたばっかりに。今日はどうも済みまっせんでしたち。ところがその晩ですかその朝ですか、繁雄さん神様からお知らせを頂いておられるのはですね。昨日はねたとえば電話が架かっても、行かんのが本当じゃったという意味の事を頂いておられるわけですよ。電話が架かって来たけれども、仕事を一生懸命しておられた。だから行かんのわそれはそれが本当じゃったでしょう。
 私は病気でもなからなきゃどうでもないのだと。ただどっちかち言うならその贅沢な、いわゆるお酒どん飲んで酔っ払ったけん、寝とったち言う風なこっじゃもん。だからそれは繁雄さん来られない方が本当であったと神様が仰った。だからその晩に私がそおう言う風にしとったら、繁雄さんが非常にそれの事が気にかかられた訳です。もう今日の先生は、もうえらい昨日の繁雄さんのあくる日の言葉です、もう先生はこげんも冷とうなんなさったじゃろかて思うたとこう言う訳です。
 それで私はそれでもう私は、ムカッとしとるですもんだけんねやっぱ。電話その電話掛けたとかそれを聞かん先は何でもなかった。けども電話まで掛けたのに忙しかったけん、こられじゃったという事は、それは繁雄さんの信心にゃもとる事だと思うたから、くうっとした。そこでその事が一生懸命神様に願われることになり、神様がお夢の中でその事を知らせて下さったのにです、それは行かん方が本当じゃったとこう言うてある。それで安心が出来た。行かじゃった事がひっかかっとったけん。
 ところがもうそれに今度は、追いかけるように神様が、また言うておられることはね。それが例えばよし嘘であっても、行けばそこから信心のね、いわゆる信心の何とかじゃったですね、信心の三昧境が開けると頂いておられた。只今先生が具合が悪いけんでちょいと来てください。うちで忙しかから行かん。それは行かん方がほんなこって。ほんなこつはほんなこつじゃけれどもね、だからここまでの信心ではです、今日の言うところは分からんのです。ここまでの信心ではです。
 いわゆるその辛抱こそであり、いわば辛抱して行く内にであり、辛抱して行く内に徳が受けられるというおかげになって行かんのですね。信心のいわゆる三昧境。例えばその苦しいけれどもですそこんところは辛抱しかねる、しきらんごとあるけれども辛抱して行くその向こうにです三昧境があると。その三昧境こそが信心の喜びであり、それが信心のお徳になるのです。だからこの辺が大事なところなのです。これは例えばほんなら普通のことから言うても良いです。
 こうしてもうとてもどげん考えたっちゃ、外されない御用があるけれどもね、こと神様の事を第一とするいき方。そういう辛抱こそ私はそのそういう辛抱の信心が出来て行く間に、私徳が受けられるというのじゃなかろうかとこう思う。いわゆる平田さんの言われる「神、公、私」なんです。ですからねこげん忙しかっじゃから、神様の御用の方には行かれんというのはね、決して神様が責めなさる事でもない。実を言うたら氏子の方の側から言うたらそれが方が本当なこつ。
 家業の行に一生懸命打ちこんどる事は。ほんな事じゃけれども、それでは信心の新味と言うか三昧というものは、信心三昧というものは開けて来ないと。そこで平田さんの言われる神、公、私、と言った様な、信心の行というものがです、心がけられなければならない基幹に合楽の人達は現在あるんだということ。辛抱して行く内というのはそういう辛抱の出来ないところを、辛抱して行くという辛抱がその間になされておらなければ、私はねいつまでたってもね。
 お互いが毒を持たない俗人匹夫の俗人から開くのじゃから、ものが難しゅうて暇がいる。神のおかげで開かせてもらうのぞと。たとえ一時はむつかしい事があっても、例えここに一時は難しい事があっても、そこを辛抱していくというのですから。神、公、私、の神を先にとらなければならん事が分かりますでしょう。そういう辛抱が初めてでけて初めて、身に徳が受けられると言う事になる。そこに初めて神様の願いといういわゆる人間の幸福の、いわば土台というものが出来てくる。
 そこに私共の願いも神様の願いも一遍に、成就して行くというようなおかげが受けられる。成程一時は難しいが、ということが分かります。なるほど下から上に水を流すようにむつかしいということが分かります。けれどもその難しい所を通らなければ、信心の本当の新味というのは、ただ理想的というかね合理的というか、そういう合理的な信心からだけではです、忙しい事は神様が知ってござるけん。なるほど知ってござる。またそれがある意味合いに言うと本当なんです。
 けどもそれではね。おかげが受けられん。それでは徳が受けられないということね。こういう風に例えばここんところを、九十節を頂かせてもらうと、なるほど「信心な見やすいものじゃが」といったような御教えもあります。またその前の八十九節に「此方の道は傘一本で開く事が出来る。」と、いとも簡単に言うておられる意味が分かって来るでしょう。勿論傘一本で開く。私共はその一本の傘を頂くために、そこんところの普通では出来ないけれども、そこんところを辛抱していく信心が必要なんです。
 ただ何十年信心しよれば、徳が受けられるという意味じゃ決してないという事を分からにゃいかんです。一時はむつかしい事があってもそこを辛抱していくと。とても今神様へ例えばお参りが出来ないという立場にあってもです。そこん所を変人にならせて頂いて、神、公、私、の神を先に取らせて貰うといういき方をです。そういう信心させて貰う、そういう辛抱から徳が受けられるのです。ですからもうこれは合理的な信心ではなくて、いわゆる超合理的な信心が求められておる、私はこれは御理解だと思います。
 そう言うような面は、例えば言葉の中から全然現れてませんけれども、よくよく頂くとそう言う事になるんですよ。最後にその辛抱していく間に徳が受けられると仰る。その徳が受けられる程しの信心というのは、ここんところにあるんです。合理的なただ理屈にあった、ただそれが本当だというだけの信心の、まいっちょ向こうに本当のまいっちょ本当があるという事を、ひとつ知らしてもらい分からせて貰わなければ、身に徳を受けて行くと言う様な信心にはなって来ない。
 と言う事と同時にです今私が申し上げましたような、例えばいま合楽の信奉者の全部が上から下へじゃなくて、下から水を流す程しのところを通らせて頂いておるんだと思わなければなりません。それには只今私が申しましたような、信心を身に付けていくと同時に、それと同時に大事な事は、御理解三十五節の中にありますね。「信心は日々の改まりが第一じゃ。毎日元日の心で暮らし、日が暮れたら大晦日と思い、夜が明けたら元日と思うて、日々うれしゅう暮らせば、家内に不和はない。」
 こういう所が又、それとは同時に併せて出けて行かなければならんのです。それはどういう事かと言うと、日々ですその辛抱しておる間に日々です、日々の改まりが大事じゃと心がけとかなければならないという事です。成程これじゃおかげを受けれる事は分るでしょうが。信心の進め方という事は、今私が申しましたその辛抱している間の信心の進め方は、いま私がややもすると、例えば繁雄さんの例を申して申しました様にです。自分の都合が先に出るような事に、必ず長くなって来ると出来ますから。
 ここんところをひとつちゃんとした信心さして貰うて、自分の都合じゃない神様のご都合を先に取らせて貰う、信心の進め方と同時にその間に、辛抱しておる間にここが分かったと、ここが改まれたという改まりの信心と同時に、今年のここの信心のスローガンですね。元日と思うたり大晦日と思うたりという事は、より明るくよりにこやかにという事なんですよ。日々の改まりが第一ということと同時に、より明るくどのような問題に直面いたしましても、よりそれをにこやかに受けていこうとする精進。
 と同時にこれが信心の姿勢と進め方という事を、この九十節から頂きましたですね。だからここんところをですね。皆さん良く分かって、またここんところを行じておられると思うんです。いや朝の御祈念に参っておられる方は、行じておられると思いますから、それをもっともっと、密なものにしていかなければならないという事でございます。いうなら繁雄さんですらそういう落とし穴に、ちゃっとこう填っておられるということ。これが私が例えば注意をしなかったらですね。
 私が言わなかったらです。本当にそれでとにかく夜の十時ごろから出てきてから、十二時ごろ帰られるごたる信心が、もうそれが繁雄さんの信心の様にでもなったら、もうそれは大変なんですよ。それの方が便利はいいです。それでほんなら御用だけは十分出来るです。けれどもそれではいけない事が分かります。どうぞひとつお繰り合わせを頂いて、本当の本当の向こうにもういっちょ本当があるということ。その本当を辿らせて貰う時に、初めて信心の三昧境があるとその三昧境こそがです。暑かっても暑さを感じず、寒かっても寒さも感じん程しの有り難いもの。それがお徳になるのですよね。
   どうぞ。